ピラティスの効果
検索キーワード= ピラティス
優先キーワード=
伝授とは?
[ 115] 古今伝授
[引用サイト] http://www.gujo-tv.ne.jp/~kokin/page09.html
|
古今伝授というのは「古今集」の解釈を中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を、口伝・切紙・抄物によって、師から弟子へ秘説相承の形で伝授することをいいます。 「古今集」は、905年に紀貫之ら4人の撰者が醍醐天皇の命を受けて勅撰した、日本最初の勅撰和歌集です。平安朝文学の典型として代々の歌人に尊重され、歌を作るための手本となっていました。しかし、成立後100年以上もたつと、歌の本文や解釈について疑義が生じ、各人各派の注釈が行われ始めました。 東常縁は、藤原定家より受けた御子左(のち二条流が主流となる)の享受とともに、正徹、尭孝といった中世を代表する歌人に学び、切紙による伝授方法を取り入れて、連歌師の宗祇に伝授しました。この切紙を中核とする伝授ににより、古今伝授が確立されました。 古今伝授の中核となるのは、古今集の講釈と、「三木三鳥」などの秘説を切紙で授けることです。流派により異なりますが、 慶長の初め、細川幽斎は分派した古今伝授を集大成します。1600年、関ヶ原の戦いの際に、幽斎は徳川方についたため石田三成軍にその居城・京都丹後の田辺城を包囲されますが、古今伝授の断絶を恐れた後陽成天皇の勅命によって、城の包囲を解かせました。東常縁から始まった古今伝授が、後々まで尊重されたことを知るエピソードです。 現在、これまで封印されてきた古今伝授資料が公開されるなか、中古・中世から近世にかけての文芸一般、またその時代の社会思想や文学理念のありようを追求する手がかりとして、研究がなされだしました。 古今和歌集の中の語句の解釈に関する秘説などを特定の人に伝授すること。三木・三鳥が中心で、切紙伝授を生じた。東常縁に起り、宗祇に伝わる。宗祇から三条西実隆を経て細川幽斎に伝えたものを当流(二条派)、宗祇から肖柏に伝えたものを堺伝授、肖柏から林宗二に伝えたものを奈良伝授という。 8代集・21代集の第一。勅撰和歌集の始まり。20巻。紀貫之・紀友則・凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)・壬生忠岑(ミブノタダミネ)撰。905年(延喜5)または914年(延喜14)頃成る。六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、その歌風は調和的で優美・繊麗。真名序・仮名序がある。当初、「続(ショク)万葉集」といった。古今集。 室町時代以後、歌道・神道その他で、切紙に記した免許目録を弟子に伝授すること。 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一。醍醐・朱雀天皇に仕え、御書所預から土佐守、のち従四位下、木工権頭に至る。紀友則らとともに古今集を撰進。家集「貫之集」のほか「古今集仮名序」「大堰川(オオイガワ)行幸和歌序」「土佐日記」、「新撰和歌」(撰)など。 第60代の天皇。名は敦仁(アツギミ)。後山科帝・小野帝とも称。宇多天皇の第一皇子。藤原時平・菅原道真らの補佐の下に国を治め、世に延喜の治と称。古今和歌集を勅撰。(在位897〜930)(885〜930) 天皇または上皇・法皇の命により歌人が編纂した歌集。平安初期より室町時代に至るまで21集ある。中でも「古今集」「後撰集」「拾遺集」を三代集と呼び、これに「後拾遺集」「金葉集」「詞花集」「千載集」「新古今集」を加え八代集と呼ぶ。醍醐天皇朝の古今集から後花園天皇朝の新続古今集を総称して二十一代集という。 室町時代の歌人。下野守に任ぜられ、東野州と称。後に出家して法号、素伝。正徹・尭孝に学んで古今集の秘奥を極め、門人宗祇に口伝したのが古今伝授の初めという。著「東野州聞書」「東野州消息」「常縁集」など。(1401〜1484頃) 鎌倉前期の歌人。京極中納言などと呼ばれた。俊成の子。新古今集(共撰)・新勅撰集を撰。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。家集「拾遺愚草」のほかに、歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」など。源氏物語・古今集・土佐日記などの古典校勘の業に従い、日記に「明月記」がある。書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された。(1162〜1241) 藤原俊成とその子定家の確立した和歌の師範の家筋。俊成は古今集の正調を継ぎながら幽玄美を追求し、定家は父の歌学を更に発展させ、定家の孫為氏・為教・為相がそれぞれ二条・京極・冷泉の三家に分れた。 室町前期の歌僧。字は清岩、また清巌。号は松月。東福寺の書記であったので世に徹書記という。歌を冷泉為尹(タメタダ)・今川了俊に学び、沈滞した当時の二条家の歌風を排し、定家への復帰を強調。その歌は夢幻的・象徴的。歌集「草根集」、歌論書「正徹物語」など。(1381〜1459) 二条派の系統に立つ大御所的歌人として活躍。広く公武僧の歌人たちと親交があり、特に冷泉派の正徹と対抗する歌人として注目される。(1391〜1455) 和歌の上句と下句に相当する五・七・五の長句と七・七の短句との唱和を基本とする詩歌の形態。万葉集巻八の尼と大伴家持との唱和をはじめ、古くはこの短歌合作の形すなわち短連歌が専ら行われたが、院政期頃から多人数または単独で長・短句を交互に長く連ねる形すなわち長連歌に発達、中世・近世にわたって流行した。長連歌は第一句を発句(ホック)、次句を脇(ワキ)、第三句を第三、最終句を挙句(アゲク)といい、句数により歌仙・四十四(ヨヨシ)・五十韻・百韻・千句・万句などの形式がある。百韻を基準とするが、百句を通じて意味を一貫させるのではなくて、連続する二句の間の付合(ツケアイ)や全体の変化などを楽しむ。つらねうた。続歌(ツヅケウタ)。 室町末期の連歌師。号は自然斎・種玉庵。俗に姓を飯尾(イイオorイノオ)としているが、姓はつけない。和歌は東常縁より古今伝授を受け、また、連歌を心敬らに修め、称号「花の本(モト)」を許され、当時連歌の中心指導者。編著「竹林抄」「新撰菟玖波集」「萱草(ワスレグサ)」など。(1421〜1502) モクレン科の常緑高木。わが国南西部の暖地に自生。高さ18mに達する。樹皮は暗緑色で平滑。葉は長楕円形、光沢ある革質。春、葉腋にやや紫色を帯びた白色の花を開き、芳香がある。果実は集まって球果状。材は床柱または器具とし、葉は香料。 安土桃山時代の武将・歌人。三淵晴員の子。本名、藤孝。忠興の父。剃髪して玄旨幽斎と号し、信長・秀吉・家康3代に仕えて重用された。三条西実枝(サネキ)に古今伝授を受け、近世歌学の祖と称された。家集「衆妙集」。(1534〜1610) 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原で、石田三成の西軍と徳川家康の東軍とが天下を争った合戦。諸大名はいずれかに属したから天下分け目の戦いと呼ばれた。西軍小早川秀秋の裏切りによって東軍が大勝し、爾後、家康は天下の実権を握り、同八年、征夷大将軍に任命された。以来、一般に重大な勝敗を決する戦いを「天下分け目の関ヶ原」という。 安土桃山時代の武将。幼名は佐吉。治部少輔と称す。近江の人。豊臣秀吉の寵を得て五奉行の一人となり、特に経済・財政の面に活躍した。佐和山18万石の城主。のち徳川家康を除こうとして、秀頼を擁して挙兵、関ヶ原に敗れて京都で斬首された。(1560〜1600) 第107代の天皇。名は周仁(カタヒト)、初め和仁(カズヒト)。正親町(オオギマチ)天皇の皇子誠仁(サネヒト)親王(陽光院)の第一王子。正親町天皇の猶子。古文孝経・日本書紀神代巻などの古典を刊行(慶長勅版)。(在位1586〜1611)(1571〜1617) |